サンソン・フランソワと、あの恋の記憶

 

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サンソン・フランソワと、あの恋の記憶

午後の静かな部屋に、ショパンが流れている。演奏しているのは、サンソン・フランソワ。少し翳りのある音色が、胸の奥を優しくかき混ぜる。

この演奏を聴くと、決まって思い出す人がいる。

半世紀も前のこと。まだ若かった頃に出会った、ひとりの人。名前を呼ぶことも、もうほとんどなくなったけれど、ふとしたときに心に浮かぶ。まるで、今もどこかで息づいているかのように。

もう二度と会うことはない人。けれど、彼と過ごした日々は、私の中でずっと息をしている。いくつもの季節を越えてきたのに、そのときの空気や匂いは、音楽によって蘇る。

あの頃の空気、指先の温度

彼と一緒に歩いた並木道。葉のこすれる音、秋の風のにおい。カフェの窓辺で交わした言葉のひとつひとつが、今でも耳の奥で響いている気がする。

照れた笑顔。沈黙の間に流れていた時間。交わした視線や、手を握った瞬間の指先の温度。それらすべてが、かけがえのないものだった。

もう戻ることのない日々。
でも、ショパンの旋律にのせて、記憶は生き返る。

あのとき私は、誰よりも彼を見つめていた。
あのときの私は、世界でいちばん、恋をしていた。

たとえ未来がどうなるか分からなくても、その瞬間だけは、本当に幸せだった。

恋は、終わっても残るもの

時が経ち、暮らしが変わり、姿も変わって。
それでも、恋だけは“記憶の中で老けない”のだと思う。

時間はすべてを過去にしてしまうけれど、心の中に根を張った恋は、決して色褪せない。むしろ、そのままのかたちで大切に保存されている気がする。

今の私が、サンソン・フランソワの音に癒されるのは、彼の演奏が、あの恋の匂いを連れてくるから。

哀しみも、よろこびも、すべて含んだあの恋の記憶は、もう手放さなくていい、私だけの宝物。

今さら語ることもないけれど、心の奥では、ずっとその恋が息づいている。そして、それでいいと思えるようになった。

心の中で、また会えた

彼にもう一度会いたいとは思わない。今の私にとって大切なのは、当時の私の気持ち。

恋をしていた私。誰かを真剣に想っていた私。
その気持ちは、今の私を形づくる大切な一部。

音楽が、その記憶を抱きしめてくれるから、私はこの午後を、やさしい気持ちで過ごせる。

サンソン・フランソワのショパンが流れる午後。
それは、私の中で再び恋が芽吹く、静かな奇跡のような時間。

過去を懐かしむというよりも、静かに抱きしめるように。
記憶とともに過ごす時間は、年を重ねた今だからこそ感じられる、深い癒しなのかもしれない。

そして、私は今日も、そっとその旋律に耳を傾ける。

 

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